日中戦争において、日本軍は騰越城内の守備隊は、城内に中国軍に追い詰められて、1944年9月13日に中国雲南省の拉孟にて全滅して玉砕した。日本軍は弾丸も尽きて、最後には大事な手榴弾で自決を命令された。騰越城内には、殺害あるいは自決した日本軍兵士の死体が散乱した。
1944年6月27日から、雲南省の騰越城に守備していた日本軍に、中国軍から砲撃された。騰越城は、3kmにわたり高さ約5mと幅約2mの壁に囲まれていた。その周辺の約3000m前後の山地の陣地で、日本軍は約2,025人の体制で戦力はわずか約900人が守備した。7月23日に騰越城外の日本軍の陣地に、中国軍は侵攻した。7月26日は中国軍はアメリカ軍の爆撃機で、空襲して爆撃した。7月27日には、日本軍は騰越城内に集結して守備した。7月28日に日本軍司令部は、全員が死ぬまで守備する死守の命令を下した。日本軍司令部も、騰越から南に約70kmの龍陵にて中国軍と激戦中であった。中国軍は、アメリカ軍の武器を装備して戦力は増大していた。8月2日に、騰越城内に1日約3,000発の砲撃と機銃掃射を受けた。8月5日には、連合軍のB-25爆撃機が、空襲して騰越城内と城壁を爆撃して、8月13日に騰越城内の日本軍は大損害を受けた。8月14日から中国軍は騰越城内に侵攻を繰り返した。8月19日には、中国軍により、騰越城内の日本軍は北東方面に追い込まれた。8月21日には残存兵力は約650人に、9月1日には約350人まで、9月11日には約70人まで減弱した。9月13日に日本軍は、日本国旗を焼却して、最後には全滅する突撃をした。
騰越城から南東に約100kmにて、日本軍は1944年6月1日から雲南省の拉孟方面を守備して、中国軍の松山陣地に侵攻していた。サルウィン河の対岸の鉢巻山から松山陣地まで突撃した。突撃した約100人の戦傷者を含めた約1,260人の日本軍が、6月20日に日本軍の弾薬庫が中国軍の砲撃で崩壊した。その後から次第に弾薬が枯渇した。6月20日に日本軍の戦闘機が、手榴弾と銃弾を投下補給した。7月からは、中国軍が日本軍の陣地内にも攻撃した。7月20日には、約8,000発もの中国軍の砲弾が、日本軍の陣地に砲撃した。日本軍の生存者は約300人と激減した。7月末には、司令部から守備隊の日本軍兵士に対して、9月上旬まで死守する命令が下された。死守できない場合は、日本軍兵士は全滅して玉砕を示唆された。8月初旬からは、中国軍が日本軍陣地に繰り返して侵攻して、白兵戦に陥った。8月8日には、日本軍は生存者はさらに約200人まで減弱した。8月20日には、日本軍の最大の関山陣地にも中国軍は侵攻した。8月23日には、日本軍の守備隊はさらに戦死傷して約100人まで減衰した。司令部から厳命された9月上旬までの死守の直前である8月30日に、日本軍は白兵戦で弾薬は枯渇して、戦闘能力のある日本軍兵士は激減した。守備隊長は、すべての生存者は弾薬と食料が欠如して、死守が不可能になったと司令部に電報した。その直後に全ての日本軍守備隊のすべての資料から資材を破壊して消去した。9月6日に守備隊長が戦死して、9月7日に日本国旗を焼却した。最後に残存していた約50人の日本軍守備隊員は、バンザイと掛け声から中国軍の陣地に突撃して全滅して玉砕した。戦傷者は、手榴弾により自爆して自死した。
1944年9月21日の朝日新聞に、日本軍の騰越と拉孟の守備隊の全滅して全員が戦死したことが公表された。数倍の敵を撃破し、全員壮烈なる戦死、ビルマと雲南を結ぶ公路の打通許さずと朝日新聞は報じた。騰越と拉孟の両守備隊は、阿修羅の奮戦をした皇軍の精華であると奉り、大本営の上層部からの感状を称賛した。敵中である中国軍の半数は再起不能であると虚偽した。
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