第一次上海事変にて1932年2月20日に、日本軍は中国軍陣地がある上海の江湾鎮を強襲して侵攻した。塹壕の中に取り残されて遺棄された中国軍兵士の死体が横たわった。その塹壕内には、中国軍の武器が散乱していた。日本軍は、2月20日に上海の廟行鎮東方及び江湾鎮附近の中国軍の陣地を攻撃して、江湾鎮の東端まで侵攻した。中国軍は、江湾鎮の市街に堅固なる家屋を利用して、徹底した抗戦して。日本軍は侵攻の進捗が停滞して、戦闘が苦戦に陥った。
中華民国の上海共同租界にて1932年1月28日から3月3日まで第一次上海事変が勃発した。日本軍は、上海の邦人の保護と租界防備に関する国際的義務を全するを事由として1917年2月6日に日本軍が日本より上海に派遣された。第十九路軍を主幹とする約5万人の中国軍は2月20日から上海の日本軍に第一次総攻撃した。
日本軍は、2月22日夜中に廟行鎮の敵陣地を夜襲しこれを奪取した。三十六勇士が出現して、肉弾三勇士として謳われて、作江、北川、江下の三伍長は戦死して、師団長より感状の名誉を授与された。帝国万歳と叫んで吾身は木端微塵、忠烈まさに粉骨砕身、葉隠れ主義の露堂々など、美談が広く報道され反響をよび、壮烈無比の勇士と武功を称えられ国民は軍国主義に熱狂した。日本軍は、中国軍陣地の郭家屯にて、閘北方面から優勢なる中国軍が逆襲した。廟行鎮附近の戦闘により、第十九路軍に蒋介石の中国護衛軍が援軍して来た。
2月26日には江湾鎮の中国軍は戦闘機の爆撃と砲撃されて、西方に退却した。日本軍は、廟行鎮から江湾鎮、閘北までの戦線を占領した。3月1日に江湾鎮の西方約2Kmの大行橋から江湾鎮の南方約25Kmの夏馬湾まで侵攻した。3月2日に混乱して敗走する中国軍を追撃して、3月3日に戦闘は終結した。
3月24日より、日本軍と中国軍の停戦を、イギリス・アメリカ・フランス・イタリアの4国の武官が参与した委員会で協議を重ねた。特にイギリス公使の斡旋により停戦協議は進展した。3月25日から上海に駐屯した一部の日本軍から帰還を開始した。4月29日の天長の佳節の爆破事件が勃発した。4月30日に国際連盟の停戦の勧告決議が採択されると、停戦協議は5月5日に調印された。5月9日までの日本軍の戦死者は約634人で戦傷者は約1,791人に及んだ。中国軍の犠牲者は戦死者4,086人、戦傷者は約9,484人に及んだ。民間市民は約6,080人が殺害されて、約2,000人が負傷して、約14,000人が行方不明となった。日本軍は、5月11日に大本営に対して、満州方面における拡大する反満、反日の匪族を、直ちに武力を以て徹底的に鎮圧して治安の維持を求めた。満州の駐兵地域の拡大に伴い兵力が不足して、上海事変の停戦の調印を利用して、日本軍を改編して満洲に転用することが発令された。
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