第一次上海事変の最大の激戦地となった悲惨な大場鎮の戦いでは、塹壕の中で日中両軍兵士の死体が散乱した。日本軍兵士らは、戦死した板間に戦死体を載せて担いで、大場鎮の戦場から運び出した。戦場の後方まで戦死体群を集積して火葬して埋葬した。両軍は塹壕から出る地点で、猛烈な射撃を受けて死傷者が続出した。大場鎮にて突撃を繰り返して、上海戦線の203高地と呼称されて、多くの犠牲者を出した。大小の小川を挟んで、決死の肉弾戦が続いて、弾丸が降り注いだ。小川の橋を落しては、中国軍兵士が民家に籠って頑強に抵抗した。中国軍が設置した小川の水路や陣地の蜘蛛の巣によって日本軍の侵攻が立ち往生した。1932年1月28日から3月3日まで上海で日中両軍が衝突した第一次上海事変では、日本軍と中国軍で約4万人もの死傷者が出た。日本軍は戦死者は約769人、戦傷者は約2,322人の犠牲となる。中国軍は戦死者は約4,086人、戦傷者は約9,484人の犠牲を伴った。
上海事変後に、1932年1月28日に上海の共同租界に戒厳令が施行され、イギリス・アメリカ・フランス軍は警備した。日本海軍と陸軍も在留邦人保護のために上海に上陸して警備した。中国の第十九路軍が突如に発砲して、上海の閘北一帯が戦闘に陥った。小川沿いの脇に両軍に多くの死傷者が倒れ、多くの犠牲者が出た。中国軍は、戦場ー帯に設置した鉄剛網から機関銃を発砲した。上海の廟江鎮の戦場では、日本軍兵士の爆弾三勇士が爆弾を抱いて自爆して鉄条網を粉砕して、殉職に対して日本大衆から英雄と讃えた。
第一次上海事変は、1931年9月18日の柳条湖事件から派生した満州事変の際に、併発した日本軍と中国軍の局地戦争である。世界の注目を満州国の建国工作からそらし、中国の抗日運動を抑える謀略から発生した。中国人を買収し、1932年1月18日には、日本人僧侶を襲撃・死傷させて、抗日運動の上海に険悪な情勢を波及した。中国側当局が日本の抗議要求をのんで事件は落着するも、日本軍は日本租界に陸戦隊を配備し、1932年1月28日から中国第十九路軍と衝突した。中国側の第十九路軍は抗日意識の高い精兵で、上海市街や北西郊外の水陸の地形を巧みに活用して日本海軍の陸戦隊を苦しめた。2月には、日本政府は日本陸軍を大動員して、激戦を展開した。上海は各国の権益が交錯するために、英・米・仏3国の休戦勧告など国際的圧力がかかった。国際連盟総会直前の3月1日に最大の激戦地となった大場鎮の中国軍陣地を陥落した。3月3日になり中国軍の第十九路軍は退却した。国際連盟の3月4日の臨時総会で、日中両国の戦闘停止を決議した。日中両国が決議を受諾して、第一次上海事変の戦闘が停止した。5月5日に停戦協定が結ばれ、日本軍は撤退した。この間に1931年3月1日に満州国が建国された。中国側の抗日意識や列強の対日警戒心が一挙に増大した。
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