広島赤十字病院の外来に、多数の子供らも広島原子爆弾の被爆者が通院していた。広島原子爆弾が1945年8月6日投下されて炸裂した約2ケ月後の1945年10月9日に、外来に子供ら被爆者が、広島日赤病院の外来治療室にて加療された。看護婦らは、原爆症の子供らの被爆者の傷口の処置も行っていた。被爆当日には46人の看護婦が死亡し、5人の看護婦が重傷を負った。看護寮では25人の看護学生も死亡した。
1945年に被爆した10歳未満の子供たちは、通常は高齢者に急性骨髄性白血病を発症する骨髄異形成症候群(MDS)に、一般人口の4倍の割合の罹患が後に示唆された。幼少期の被爆者は、数10年にわたり複数の種類の悪性新生物に罹患し、個別に発症する傾向が見られる。被爆時に全身が放射線を受けて、複数の臓器の幹細胞が損傷を受け、その後に異常な細胞が発生して悪性新生物を発症すると示唆された。放射線被曝が被爆者の遺伝子に損傷を与えた場合に、放射線影響の遺伝的な伝達も長期的な問題となる。
太平洋戦争中は、広島陸軍病院赤十字病院であった日本赤十字社広島病院は、爆心地から南約1.6kmと至近距離であったが、広島市中区千田町1丁目に残存した。「敷地内にあった木造建築は全部倒壊し、間もなく火を発して焼失したが、主な建築物は、鉄筋コンクリート3階建てであったので焼失は免れた。しかし、鉄の窓枠は破壊しガラスはこっぱみじんに飛散し、内部も天井は落ち壁は崩れ椅子や机は倒れ、足を踏み入れることができないほどまったく壊れてしまった。医師5名、薬剤員3名、その他43名の計51名が死亡し、全職員の85%が重軽傷をうけた。病院としての機能を全く喪失してしまった。」しかし、8月6日午後から、病院職員の尽力で被爆直後から臨時救護所が設けられた。翌日の8月7日には山口県、岡山県などの赤十字病院から救護班が到着し始めて、医療活動に入った。
広島市内は瓦礫の中で、広島日赤病院は被爆した直後から、被爆者の救護活動を再開した。「1.収容患者の治療をすること。2.外来に押しかけたり運び込まれたりする患者に何とか応急処置をすること。3.破壊された病室を清掃して少しでも患者の収容力を増すこと。4.衛生材料の確保補充。5.食糧の確保。6.次々に死んでいく死体の処置。7.便所をつくること。8.入浴場をつくること。9.飛散した病院の書類を収拾して紛失盗難を防ぐこと。10.職員及びその家族の死亡や負傷状況を知り、また職員の日々の活動状況を正確に把握すること。」が緊急の課題であった。[「」内の引用は、後に病院長になった重藤文夫氏の『回想』(仁科記念財団編纂『原子爆弾=広島・長崎の写真と記録)を参照]悲惨な損壊を受けた広島赤十字病院で、1945年10月頃には血液検査ができるようになり、血液検査を求める広島市民の被爆者の人数がさらに増大した。被爆者の放射能障害は、血液検査が診断となる白血球の著しい減少が特徴である。
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