裏切り者として絞首刑されたイタリアの帝国議会議員でもあったチェーザレ・バッティ(Cesare Battisti)の死体とその死刑執行人であるジョーセフ・ラング(Josef Lang)を撮影した写真が、第一次世界大戦中の1916年に絵葉書となった。笑顔である死刑執行人とその助手は、まるで酒場のようなポーズをとる。吊るされた囚人は、両手で遺体の所有権を示す誇らしげな死刑執行人によって、トロフィーのように保持された。多数の野次馬のような観衆者たちが、絞首台で犠牲者と一緒に写真を撮った。死刑執行は、暴力の覗き見的な儀式として公然と行われ、陰惨な光景は、魅力とある種の欲望を刺激した。絞首台に絞首刑にされた死体とともに撮影され、「笑うオーストリアの死刑執行人」の写真とカードは世界中に広まった。
チェーザレ・バッティは、オーストリア・ハンガリー領のトレントで1916年7月12日に絞首刑にされた。1911年にウィーンの国会議員に選出されたが、1915年5月にイタリアがオーストリアとの戦争に突入すると、バッティはイタリア軍に入隊した。トレンティーノ地方にイタリア軍が侵攻した時に、1916年7月11日にオーストリア軍に捕獲された。オーストリア人であり裏切り者と判決された。7月12日に略式軍法会議でバティスティは捕虜と主張したが、真っ向から否決され、反逆罪で絞首刑が宣告された。スパイや裏切り者として、男性、女性、子どもがたちが軍事裁判により大量に処刑された。強制送還や抑留、組織的な処刑によって怪しい民間人として国民を弾圧した。
囚人たちは法廷から直接に絞首台に連行された。最初に首を絞めた縄が切れ、減刑される伝統も無視されて、新しいロープで絞首刑が執行された。バッティスティは、イタリア トレント 万歳(Viva Trento Italia!)と叫んだ。絞首刑後に死体は、棺も目印もなく城の下水道に捨てられた。死刑執行人のジョーセフ・ランゲは1900年から1918年のオーストラリア・ハンガリー王政廃止まで務めて、その間に39の死刑判決の死刑執行人であった。絞首台に絞首刑にされた死体とともに撮影され、「笑うオーストリアの死刑執行人」の写真とカードは世界中に広まった。死刑執行人は、しばしば国賓のように駅に迎えられ、高い社会的評判を享受していた。
オーストラリア当局は絞首刑を撮影して写真カードを作成し、見せしめと抑止力にした。裏目に出て、バッティスティは殉教者となり、オーストリア人に野蛮なイメージを与えた。当局はすぐ気付いても、カードの配布を中止し、配布を回収は困難となった。写真はイタリア人の手に渡り、イタリア国内の反オーストリアのプロパガンダの材料となった。
さまざまな戦争推進派は、戦争は国を強くし、国民を頑強にし、より偉大な存在になれると考えた。戦争は国民を団結させ、愛国心を持たせる手段だと考えた。戦争を個人的な権力を得るための機会と考えた。個人的な名声や冒険、名誉を得るための機会を求めた。大国の地位を獲得し、権益を保護・拡大し、植民地を獲得することを求めた。バッティの主な目標は、民族を中心としたナショナリズムに基づいた。オーストリアでは裏切り者と非難されたが、イタリアでは今でも、彼は愛国者、英雄、殉教者とみなされた。
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