日本は1945年8月15日にポツダム宣言受諾して、太平洋戦争が敗戦して終結した。日本の本土は、廃墟と化した。生存した日本軍兵士は、8月23日より海外から復員をした。陸海軍の文書では、内地が約396万人、外地が約365万人に達した。終戦を海外で迎えた日本人は、約640万人に達して、復員は1956年まで引き続いた。12月1日に、陸軍・海軍省は、第1と第2復員省として改組されたて復員業務をした。引き揚げには、一部の戦死者や途上での死亡者が、火葬した遺骨で戻った。
軍復員した家族の兄であった日本軍兵士に、弟妹が縋り付いて慟哭した。一挙に大量の日本軍兵士が復員した事で、新たな飢餓者や失業者が発生した。日本軍兵兵士は、それぞれの家族あるいは家庭に戻り、昔の人間らしい生活を求めた。しかし、戦死したり戦傷したり、二度と戻れない父や夫も多く存在した。海外からの復員者のは男性だけでなく、本土にて原子爆弾に被爆した女性、沖縄戦に巻き込まれた沖縄の女性、海外に移住して引き揚げた女性、約28万人もの戦争未亡人、未帰還者の女性、戦時職業者であっ女子挺身隊たちにも厳しい激しい敗戦が、1945年8月15日に戦争から解放された。
日本軍兵士の復員が優先されて、1945年10月までに海外から引揚げた。組織に属さない市民は、苦難と悲劇の引き揚げとなった。親族の遺骨を抱いて引き揚げた。中国からの引き揚げは、1951年9月サンフランシスコ講和で国交が回復しなかった。中国紅十会と日本側団体が協定して、1953年3月23日の興安丸・高砂丸から、1958年7月13日の白山丸まで約21回に及び、約3万4880人が引き揚げた。
朝鮮半島の約90万人が在住して、38度線以南の引き揚げは、約1946年5月までに完了した。38度線以北は、民間人は38度線を南側に突破して帰国した。北朝鮮から公式には1955年4月の1回のみ帰還した。38度線より北部の日本軍兵士はソ連に送還されて、約57万5千人がシベリアに抑留された。約32万人の樺太残留者はソ連に占領されて、1958年にまでに帰還した。シベリアへ送還されて強制労働した。1946年12月にアメリカ・ソ連協定から引き揚げが始まった。1950年4月戦犯を残して中断した。1953年11月に赤十字社協定で再開した。1956年10月に日ソ共同期宣言により、戦犯も全員釈放した。
東南アジア・太平洋・台湾などの南方からの引き揚げは、1948年末には帰国した。全引揚者の約23%で、復員者は約180万人にも達した。フィリピン・東南アジア・ベトナムからの引き揚げは1960年頃まで継続された。
No comments:
Post a Comment