ロシア軍が1994年12月11日にチェチェンへ侵攻したときに、約2ケ月間過ぎた1995年2月でも首都キエフの一角にはチェチェン人の決死隊が残存していた。グロズヌイ市街戦をゲリラ戦で奮闘した。しかし、ロシア軍は、武力で圧倒した。1995年6月にはチェチェン軍隊が、山岳地帯でのゲリラ戦では、チェチェン軍はロシア軍より優位となり、1996年8月にはグロズヌイに駐屯していたロシア軍を奇襲した。
雑木林にて、燃え上がっている家屋から白煙が舞い上がっていた。ロシア軍の化学兵器と想定される異臭が立ち込めた。その異臭を吸い込んで約2時間後に、毒ガスと思われる吐き気、発熱、頭痛、下痢、嘔吐の多彩な症状を催した。次第に気力も奪って、弱気に落ち込んだ。地下壕の出口付近を砲撃されて、出口から4人の戦死傷者を引きずり込んだ。2人は頭部に破断されて脳死に陥った。痙攣の動作も消失して、死後硬直した。死亡したチェチェン軍の兵士の表情はあまりにも老けていた。戦場では日常茶飯事に、死に直面しても、無感傷となり感情も消失した。
第一次チェチェン(Chechen)紛争が、1994年12月11日から1996年8月31日にかけて、ロシア連邦からの独立を目指すチェチェン共和国の独立派武装勢力と、それを阻止しようとするエリチェン政権のロシア軍との間で紛争が発生した。ロシア軍は圧倒的な軍事力にもかかわらず、ソ連崩壊後の混乱と軍事予算の削減により、ソビエト連邦と比較して大幅に弱体化して脆弱を露呈した。1994年12月31日から首都グロズヌイへロシア軍の無差別の空襲は多数の民間人の死傷者を出して、国際的非難を受けた。1996年8月に犠牲者は、ロシア軍が約5,732人以上で、チェチェン勢力は約16,299人に及んだ。民間人が少なくとも約30,000人以上が殺害された。1996年8月6日からチェチェン武装勢力はグロズヌイを急襲して、ロシア軍はハサヴユルト協定によりチェチェンから撤退した。1999年8月26日から2009年4月15日まで第二次チェチェン紛争が勃発して、プーチン政権はチェチェン武装勢力と徹底対決した。ロシア軍は、2000年2月に首都グロズヌイを再占領して、チェチェンはロシア政府の支配下となった。
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