1944年9月すぎに、パルチザン部隊による大ドイツ圏内のリチア橋の要塞付近に侵攻した。ドイツ軍駐屯地を通過中に、迫撃砲火を浴びたパルチザンの若者が殺害されて、仰向けに死体が草むらに転倒した。
ユーゴスラビア・パルチザンは、当初は主にゲリラ部隊であったが、第二次世界大戦の後半には、通常の戦闘に参戦する戦闘部隊に発展した。1944年後半には約65万人にも上り、大規模に編成された。さらに終戦直前の1945年4月には、約80万人を超えた。パルチザンの主な目的は、ユーゴスラビアの土地をナチス・ドイツ軍の占領から解放し、ユーゴスラビアに連邦の多民族の共産主義国家を創設することであった。ナチス・ドイツ軍の占領軍は地元住民に深刻な弾圧をかけた。占領の初期には、ドイツ軍はドイツ兵士1人の殺害に対して、女性、子供、高齢者を含めて、最大約100人の地元住民を無差別に絞首刑または射殺した。ドイツ兵士1人の負傷に対して、約50人の地元人を殺害した。1943年からナチス・ドイツ軍による殺害比率は削減されて秋には撤廃した。パルチザンはユーゴスラビアに広範な支持を享受して、多くの人々にとって生き残る選択肢となった。
ユーゴスラビア・パルチザンは、1941年4月6日からのナチス・ドイツ軍などの枢軸国によるユーゴスラビア侵攻に対抗して結成された。1941年6月22日に最初のパルチザン蜂起が、クロアチアで勃発した。次いで約2週間後にセルビアで、パルチザン蜂起が勃発した。1941年6月から、東部戦線にてナチス・ドイツ軍がソビエト連邦に侵攻した後に、ユーゴスラビアを占領するナチス・ドイツ軍にゲリラ戦で襲撃した。
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