張鼓峰事件が、1938年7月29日から8月11日にかけて、満州国東南端の琿春市にある張鼓峰で、ソビエト連邦と満州国さらに朝鮮が入り乱れる国境紛争である張鼓峰事件が勃発した。実質的には日本軍とソ連軍の戦闘であり、ソ連側はこれをハサン湖事件と呼んだ。日本軍の占領地である満州国にも、ソビエト連邦軍兵士が殺害された死体が散乱した。その死体を検閲する日本軍兵士は、死体からの強烈な悪臭である死臭を避けるために、ガスマスクを被った。毒ガス戦による死体と想定されたくないので、不許可掲載となった。戦死した死体には、すぐにうじがわいた。みるみる死体は食い荒らされて白骨になっていった。白骨になると頭蓋骨に射撃された穴が表出した。
1936年11月25日に締結された日独防共協定には秘密文書に対ソ軍事同盟を有して、日本とソ連の国境の緊張を高めた。張鼓峰は満州国領が大日本帝国朝鮮とソ連領の間に食い込んだ領域にある標高150メートルの丘陵であり、西方には豆満江が南流している。国境線に関して、張鼓峰は相互に領有を主張した。1938年7月6日からソ連軍は張鼓峰を侵攻して7月11日に占領した。満州国は7月14日、日本当局は7月15日に、ソ連に対して張鼓峰からの撤退を要求した。7月29日から8月11日まで、日本軍とソ連軍が激突した。日本軍は戦死者約525人と戦傷者約913人に達して、ソ連軍は戦死者約960人と戦傷者約2,752人に及んだ。8月11日の停戦の合意で、ソ連軍は日本軍による張鼓峰頂上を占領を確認して、協定通りに双方部隊は現境までの後退を完了した。その後にソ連軍は空白地域を再占領して、ノモハン事件の伏線となった。
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