戦争で手足を失った日本軍の傷痍軍人が義肢を装着して、首から募金箱を吊り下げて物乞いをした。文部省は「戦争に否定的な印象を与える」として、教科書に写真の使用許可を拒否した。
日本の教科書には、戦争に対する批判の余地が全くない。日本の教科書は、アメリカの教科書と同様に、戦争で手足を失った兵士を決して掲載できない。文部省は『戦争の惨禍(白衣の傷痍軍人の写真)』のような暗い挿絵が多すぎると、教科書には不適とした。さらに 戦争は恐怖であり、戦争はやがて終結したが、戦争で負けた兵士の腕と脚は二度と戻らないという注釈を付ける事も文部省は許諾しなかった。
『新日本史』は1960年改訂の学習指導要領に基づく検定に合格しても、主にアジア・太平洋戦争戦争を明るい文面する掲載を指摘された。高等学校日本史教科書『新日本史』(三省堂)の執筆者である家永三郎氏(旧東京教育大学教授・思想史研究)は教科用図書検定(教科書検定)に関して国を相手に家永教科書裁判を1965年から起こした。
家永氏は1965年から、検定を違憲・違法として国家賠償法による損害賠償請求(第一次訴訟)と不合格処分取消の行政訴訟(第二次訴訟)を起こした。その後、80年・83年両年度の検定で、南京大虐殺、婦女暴行、731部隊、沖縄戦、日清戦争の朝鮮人の反日抵抗、戊辰戦争の草莽隊などの検定処分に違憲・違法を訴えた(第三次訴訟)。1965年から始まり1997年まで及ぶ32年間の訴訟は、最も長い民事・行政訴訟としてギネスブックに認定された。
裁判は、検定は憲法21条2項の「検閲の禁止」に当たり違憲の論争である。第一次訴訟で1970年東京地裁では思想の検定は検閲で違憲とした。最終的に最高裁で却下された。第二次訴訟で1974年に東京地裁では検定を裁量権の乱用で違法とした。最高裁で棄却された。第三次訴訟では1989年東京地裁で検定は合憲であるが、検定に違法性の範囲を広げた。
教科書の採点基準(800点以上は合格)と各教科書の公式文書の存在はすべて公開された。特に、文部省は家永三郎の教科書を検閲した実際の過程を明らかにした。文部省は拒否の理由を、その教科書を拒否した審査官と委員会のメンバーの名前とともに説明することを余儀なくされた。教科書検定の非民主的な過程は、以前は教科書の著者や出版社からの苦情だけが知られていた。今では文部省自身の文書の恣意的な過程を明らかにし、権力の乱用に満ちた。
家永氏の2回目の訴訟での勝利は、学校の教科書に即座に影響を与えた。1970年の杉本東京地方裁判長の判決を受けて、文部省は検定基準を緩和した。日本の戦時中の残虐行為に関する幅広い資料を含める教科書の著者にとっては絶好の機会となった。特に日本軍の不正行為に関して、アジア太平洋戦争のさまざまな程度に関する多くの新しい研究が1970年代に登場した。例えば、1971年に本多勝一は、南京大虐殺の生存者への聞き取りと中国で収集されたデータに基づいて、日本軍が中国で犯した南京大虐殺やその他の戦争の残虐行為を朝日新聞で一連の報告を開始した。沖縄の研究者や教育者は、歴史事業やその他の出版物に沖縄戦の個人的な証言を収集した。第三次訴訟では最高裁は、南京大虐殺、婦女暴行、731部隊、草莽隊に関する検定が違法とした。その他の沖縄戦の記述などに関する検定は適法とされ、疑問が残った。
No comments:
Post a Comment