広島原子爆弾に青年が被爆して、顔面と上腕、背中、大腿から下腿まで原子爆弾熱傷症を被爆した。青年被爆者の火傷部位からケロイドが異常に膨隆した。京都帝国大学の研究班は、原爆被爆者の調査研究に大野陸軍病院や大野国民学校で診療・研究をした。その研究班の一員で血液学を専門とする菊田武彦が、その所見と写真撮影の記録を残した。菊池健彦は、京都大学原爆災害調査班の一員として1945年8月28日に広島市内の被爆調査をした。『京都大学原子爆弾災害総合研究調査班の成立と活動』『大野陸軍病院における京大原爆総合研究調査班の山津浪による遭難の状況(菊池武彦日記)』、被爆直後の写真などを提示した。京都大学は、1949年4月までに、広島市に4回、長崎市に2回調査団を派遣して、診療調査に従事した。
1945年8月6日に、広島市内に原子爆弾が投下され、多くの市民が被爆した。廿日市大野村では、この地に隣接して約800人を収容する大野陸軍病院があった。中央の病棟に約100人、大野国民学校(現大野西小学校)に約1,500人の被爆者が収容された。京都大学は、8月27日に中国軍管区司令軍医部から再度に、原爆被爆者の被災調査と早急なる救済のために研究員派遣の要請を受けた。京都帝国大学は、直ちに医学部の杉山繁輝、菊池武彦(血液学)、船岡省吾(解剖学)などの教授陣と理学部物理学者を加えた研究班を組織して、広島市内に派遣した。郊外の廿日市に9月3日から大野陸軍病院に本拠を置いて、研究と診療を開始した。9月9日に、アメリカ原子爆弾災害調査団が広島入した。広島県は9月15日に、8月25日時点の人的被害を報告した。死者は約46,185人、行方不明は約1,7429人、重傷者は約19,691人、軽傷者は約44,979人、罹災者は約235,656人と推定した。
大野陸軍病院は9月17日に枕崎台風に襲われて、20時30分頃に山津浪が起こり、一瞬にして山崩れして大野陸軍病院の中央部が壊滅して山陽本線を越えて海中に押し流された。同病院に入院中の被爆者の殆んど全員と職員合計約150人の尊い生命が奪われた。広島原爆への対策、調査、研究に献身した京大真下俊一教授(内科学)と杉山繁輝教授(病理学)以下研究班員約11人も含まれた。調査団員から山津波の犠牲者が出たために、活動が中止となった。
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