広島原子爆弾で自宅を焼失して被爆した夫婦が、荒廃した銀行のビルの地下室に避難して居住した。つくろいものをする主婦と力を失ったように腰をおろす主人。婦人は熱線をあびて顔面を痛々しい火傷をした。レンズに向けた悲しげなまなざし。松葉杖が痛ましい。夫婦のシャツの上には多数のハエが集る。爆心地付近の鉄筋の建物は少なく、焼け残ったのは紙屋町の広島銀行、三菱商事、野村商亊のビルのひと棟が残っていた。1945年9月中旬にライフ誌のアメリカ軍従軍カメラマンのアイヤ・マン(Jay Eyemann)が撮影した。
広島原子爆弾が炸裂した8月6日直後には、緊急的に約11ケ所以上の救護所が開設された。その後1週間以内に広島市内では約53ケ所以上に達した。被爆者の集結場を救護所に指定した。被爆当初に、具体的な救護所や救護活動の詳細な記録は見当たらない。大病院からテント救護所や地下室救護所など格差が様々であった。『戦災誌』では被爆後1週間以内に日本銀行広島支店と1週間以後に勧業銀行跡が、残存した建造物内の救護所と記載されている。広島市内と市外で、約249ケ所の救護所が開設された。市内の救護所は次第に機能の限界を越えて、被爆者は市外へと避難した。
原子爆弾から生き延びた被爆者は癌ややその他の病気で苦しんだ。アメリカ軍が広島と長崎に投下した原子爆弾により、被爆者は危険な量の放射線に被爆した。被爆した犠牲者の骨を調査すると、9.46グレイ(Gy)ものの放射線を吸収していた。癌に対する放射線治療では、腫瘍の局所領域に2〜3Gyを照射している。放射能の曝露のために、広島と長崎の多くの生存者が癌に苦しんだ。アメリカ軍が投下した原子爆弾から約2年後に、白血病の割合は子供たちの間で急上昇した。その約10年後には、癌の発生率は中壮年者の間で急上昇した。広島と長崎の癌患者の約10%は、高濃度の放射能の被爆から原爆症を発症した。
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