19世紀後半の太平天国の乱から、イスラム教徒である回民は同治反乱を起こし、清軍に大量虐殺された回民の遺骨が積み重なっていた。19世紀後半の清朝末期に太平天国よる全国的な大反乱が起きた。太平天国の嵐により中国の各地で反清の反乱が起こった。回族と漢族の反目が激しくなり、太平天国の乱の一派として同治反乱と呼称される回族大反乱が勃発した。回族の大乱は1855年から1873年に約18年間にも及んだ。漢族に虐殺された回族は約100万人ともいわれ、特に清朝は粛州の回族を皆殺した。陜西省の回民の約9割の約1,394万人が、甘粛省は回民の約3分2の約1,946万人が虐殺された。回族をみれば殺す恐怖政治となり、清朝末期だけでも中国の回族の半数以上が虐殺された。同治反乱の際、回族の一部は内モンゴル、青海、甘粛と転戦し、最後には新疆に落ち延び、天山山脈の南北で約3年半もウイグル族と連合して戦闘して、やがては国境を越えてロシア領内に逃亡した。清朝は異民族であるモンゴル、チベット、新疆内の各民族を支配するために、地域や民族によって統治形態を使い分けた。非漢民族をたくみに間接支配した。モンゴルとチベット地域の間に、新疆のイスラーム教徒を介入させた。
7世紀に誕生したイスラームは、アラブ・イスラーム文明成立のときから、はるかな中国唐朝に強い関心を持っていた。「学問は遠く中国にあるが、行き、求めるべし」というのが、イスラームの創始者ムハンマドの言葉であった。中国のムスリム(中国流にいえば回族・回民)は、唐の時代にアラブ、ペルシアから来た人びとに源を持って、唐朝時代には宗教信仰の自由があった。元の時代には中央アジアを侵略して、多数のイスラーム教徒を奴隷として連行した。その後の時代から次第にイスラーム以外の宗教は消滅した。西アジア、中央アジア系の外国人集団の中にも、イスラーム教徒だけは漢族に溶け込まずに回民で残存した。
辛亥革命でアジア初の共和国となった中華民国は、孫文の「五族共和論」や人民主権の臨時約法も消滅した。モンゴル・チベットなどを管轄も、清末から理藩部に変わり、国民党の蒙蔵院も喪失して脆弱となった。1935年に国民党政府軍に追われた中国共産党の紅軍は、江西省などの大本営を失った。やむを得ず紅軍は約12,500kmの長征を経て、中国の南から北方まで逃避した。陜西省に到着した紅軍は国民党軍に包囲されて、1937年に甘粛の高台で全滅した。紅軍の連続した敗北は、西安事件による国共合作で回避された。1910~30年代前半まで新疆、青海などと中央政府はきわめて疎遠で、チベットは清朝期よりも独立状態にあり、1917年の第一次康蔵紛争、1930年の第2次康蔵紛争など辺境では衝突が頻発した。中国に辺境・民族政策を、1924年に共産党との合作した国民党が執行した。 1953年から中華人民共和国は民族問題で、分離独立は絶対に許さない。中国は構成する諸集団が、民族に帰属を法的に認定する民族識別工作を行政手続きした。
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