日本軍のシベリア出兵は、第1次世界大戦(1914年7月28日~1918年11月11日)末期の1918年8月2日に勃発した。ロシア本土からの撤退は1922年10月25日、北樺太からの最終撤兵は1925年5月15日と、約7年にも及ぶシベリア出兵となった。ロシア革命後に、1918年2月9日にブレスト・リトフスク条約でドイツと単独講和を実現して、ロシア軍は東部戦線から離脱した。ドイツ軍は全勢力を西部戦線に振り向けた。イギリスとフランスは強い危機感から、ロシア政権を倒して、東部戦線に復帰させる作戦をした。東部戦線で捕虜となった同盟軍は、ロシア各地に収容された。同盟軍の捕虜には、チェコスロバキア人が含まれた。チェコスロバキア軍は、ロシア反革命軍として抵抗した。シベリアで孤立したチェコスロバキア軍団を救出する名目で、連合軍と日本軍を中核としてシベリア干渉をした。
緒戦から日本軍は圧倒的な武力で、ロシア軍を壊滅した。現地の農民主体のゲリラ部隊によるパルチザンで反抗した。1919年2月25日には、日本軍兵士の約44人がパルチザンに包囲されて全滅した。それに対抗して日本軍は報復するために、パルチザンの潜伏する各地の村全体を容赦なく略奪から虐殺して焼失した。アムール川河口のニコラエスクで、約4,000人のパルチザン部隊が、1920年5月24日に包囲した約6,000人の日本人移民と約700人の日本守備隊が虐殺されて焼失した。民間人は約292人、軍関係は約487人、領事館は約5人が殺害された。それ以後は、日本軍は単独のシベリアに残存した出兵となった。日本軍は、その報復として北樺太を占領した。日本軍の士気は低下して、不法行為に至り、軍紀も品行も荒廃していた。
シベリア出兵には、第一次世界大戦に関与が少ない日本軍は圧倒的に最多で約73,000人、次いでアメリカ軍が約7,950人が参戦した。西部戦線が主力であるイギリス軍が約1,500人、フランス軍が約800人とわずかな参戦であった。第一次世界大戦が1918年11月11日に終結して、連合軍が1920年6月から撤退しても、日本軍だけは1925年10月25日まで残留した。約73,000人もの日本軍は、約1399人が戦死、1717人が病死、総計3,116人が死亡した。ロシア人部隊は、約2,189人が戦死、1,421人が戦傷、約3,482人が病気や傷害の犠牲者が出た。
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