日本軍兵士は、中国の河南省輝県の付近における日中戦争で、戦死した日本軍兵士の膨大な死体を火葬して、その遺骨の一部を頚から吊り下げながら行軍した。日本軍では戦場の死体を火葬した後に、遺骨の一部を回収して、骨壺に収め、墓下に埋葬するなど安置する荼毘という仕来りを踏襲した。戦死者の遺骨が本土に還流して全く埋葬されないと、国民の視線からの戦没者の墓地や供養塔は遠のき、やがて意識から消えてしまう。その代わりに、戦死者の遺影、仏壇、墓地などに視線を注いだ。さらに、遺骨があれば戦死者の霊魂を英霊として靖国神社や寺院などに奉られた。戦時でも平時でも、故郷から遠く離れた陣地のために本土の墓地に葬るのは困難であった。
近代現代の大半の戦死者は、特に日中戦争・太平洋戦争・大東亜戦争の末期に巻き込まれた。戦場の日本軍兵士だけでなく、膨大な非戦闘員の市民も無差別に巻き込まれた。戦中の日本陸軍と海軍省が、遺骨があると戦死者と認定された兵士のみが英霊として神道式で慰霊と追悼された。遺骨があると認定された日本軍兵士のみが、靖国神社・護国神社・招魂碑の慰霊などに祀られた。さらに遺骨があると認定された日本軍兵士は忠魂碑、表忠碑など地域で記念碑に祀られた。遺骨がない日本軍兵士の場合には、各家庭ごとの位牌・過去帳・神棚などに祀られた。遺骨がないその他の兵士は平和の礎、記録誌、記念誌などに銘記された。太平洋戦争で玉砕した日本軍兵士には遺骨もなく、戦士と餓死の識別が困難となり、遺骨も回収できない負け戦であり、遺骨のない忠霊塔は国民の志気を失うと建立が抑制された。
日本人の非戦闘員である市民の無差別な戦死者は、一般の共同墓地、寺院墓地、家墓などに祀られた。非戦闘員の戦死者は、主に空襲被災者・原爆被災者・地上戦に巻き込まれた戦死者・引き揚げ途上の死者などが含まれる。各家庭ごとで非戦闘員は位牌・過去帳・神棚に祀られた。沖縄では平和の礎に刻銘された。広島・長崎・沖縄・大阪などでは戦災の記念館が建立された。その他は公私で慰霊記念碑もある。満州の開拓団などに慰霊記念碑も建立例がある。靖国神社内の鎮霊社の追悼は非公開のままである。
近代現代日本に徴兵制による軍隊の戦死者に対して、陸軍省の陸軍墓地と海軍省の海軍墓地があった。陸軍墓地では、徴兵された日本軍兵士が戦死した遺骨を埋葬した。海軍墓地では、海軍により編成された軍隊の組織単位で祀られた。終戦時には、陸軍墓地は約80墓地と海軍は主に鎮守府に約7墓地があった。徴兵された日本軍兵士の戦後は、陸軍墓地と海軍墓地は、大蔵省の管轄となり国有財産に転換された。軍隊の消滅により陸軍と海軍墓地は、急速に荒廃して、払い下げ貸与されて変性して、消滅する傾向となった。1874年10月の陸軍埋葬地二祀ルノ法則で、軍隊内の階級による格差が顕著になった。
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