世界遺産である原爆ドーム(左)から元安川を挟んで対岸の広島平和記念公園内に朝鮮人原爆犠牲者慰霊碑(中)がある。強制労働等により広島原子爆弾で被爆した朝鮮人の慰霊と、再び原爆の惨事を繰り返さないことを願って建立された。朝鮮王家の李鍝公が原爆被災後に救出された場所の近隣の“ゆかり”から、本川橋を渡って西詰めに1970年4月10日に建立された。それは旧太田川の本流を挟んで対岸の広島平和記念公園と区別された。その後に広島平和記念公園内への移設を各方面から強い要望が出され、広島市等と協議により、1999年5月22日に広島平和記念公園内に移設された。広島平和記念公園内の北端にあり、付近には平和の鐘や原爆の像がある。移設後は、双竜を刻んだ冠の中に納めた死没者名簿は、韓国の銘石で韓国で制作された亀座部分前方地面の箱の中に納められた。死者の霊は亀の背に乗って昇天する故事から、亀の台座の上に碑柱が建ち、双竜を刻んだ冠を載せた。朝鮮人原爆犠牲者慰霊碑は、差別と偏見の象徴から、平和のシンボルと共生の象徴の願いを込めた。
長崎県全体に在住した朝鮮人は約7万人など多数に上がった(内務省警保局発表)。長崎市周辺には約3万数千人が在住し、三菱系列の造船所、製鋼所、電機、兵器工場などの事業所や周辺地区の道路、防空壕、埋立て等の作業に強制労働させられた。1945年8月9日にアメリカ軍による長崎原子爆弾の投下と粗炸裂で、朝鮮人は約2万人が被爆し、約1万人が爆死した。ささやかな浄財を拠出して異郷の地長崎で悲惨な生涯を閉じた約1万余の朝鮮人のために、長崎追悼原爆朝鮮人犠牲者碑(右)を1979年8月9日に、原爆爆死朝鮮人追悼碑建設委員会が建設した(長崎在日朝鮮人の人権を守る会)。長崎市の平和公園とは約500mも南方に隔てた爆心地公園内に設置された。過去に日本は朝鮮を武力で威かくし、植民化し、朝鮮人を強制連行し、虐待酷使し、強制労働の果てに遂に悲惨な原爆死に至らしめた。戦争責任を、朝鮮人におわびすると共に、核兵器の絶滅と朝鮮の平和的な統一を心から念じる。
広島原子爆弾と長崎原子爆弾で被爆した朝鮮人は、戦後に原爆症を伴って帰国して実数は明確ではない。広島原子爆弾と長崎原子爆弾によって被爆した朝鮮人は約7万人と推定される。そのうち韓国に帰国した被爆した朝鮮人は約2万人以上とも示唆される。被爆した朝鮮人は、徴用による強制連行から原爆症から苦難している。慰霊碑はスクリーンともなり、隠蔽するための遮蔽物ともなる。戦争と平和の記念碑には、戦争犠牲者を代賛する象徴となる機能も、戦争における強烈な記憶を隠す機能もある。朝鮮半島の非核化やアメリカと中国・北朝鮮の冷戦の緩和、南北関係の融和を願い、その実現は核を廃絶する道でもある。
明治維新以後に、朝鮮支配を強めた日本は、1910年の日韓併合により朝鮮を植民地とした。生活基盤を失った多くの朝鮮人は職業と生活を求めて日本に渡たり移民となった。第二次世界大戦中には、日本は労働力不足を補うため、強制連行や徴用によって多くの朝鮮人が日本で強制労働させた。敗戦時には、日本には約300万人の朝鮮人がいたと推測された。1910年8月22日、日本政府は日韓併合条約を公布し、朝鮮は完全に日本の植民地下に置かれた。朝鮮人は自由も人権も、さらに貴重な土地も奪われ、生活の手段を失って、日本に流入した。その後、日本に強制連行され強制労働させられた朝鮮人は、1945年8月15日の日本終戦時には約2,365,263人に上った。
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