1945年8月9日の長崎原子爆弾の炸裂に被爆した少年は、長崎県外の九州帝国大学病院に護送された。爆心地から被爆距離などは不詳であった。九州帝国大学病院に入院中に早期から全身に紫斑が出現した。長崎県外では九州帝国大学附属病院、嬉野海軍病院、鹿児島原爆被災者収容所、佐賀陸軍病院、久留米陸軍病院、熊本医科大学などが救護した。その他に市外の諫早市などにも数千名の被爆者が入った。長崎市近郊では 長崎市内からの被爆者の収容にあたった。その病院は、大村海軍病院、佐世保海軍病院の諫早分院、川棚海軍病院、針尾海兵団、佐世保海軍共済病院が救護した。大村海軍病院はアメリカ軍による接収をまぬがれ、10月はじめから長崎医科大学の残存職員が医療に参加し、長崎医科大学は大村海軍病院で講義を再開した。大村市には大村海軍病院のほか、大村陸軍病院、回生病院などがあり、市内各所に収容された長崎原爆の被爆者は約4,000人にものぼった。
1945年8月9日の長崎原爆の投下は、防空、救護体制を超える深刻な被爆犠牲を伴った。爆心地と市内の境界地域が、続発した大災害のため、救護は困難をきわめた。爆心地付近では「中心爆発点ヨリ半径400メートル以内ニ在リシ人畜ハ防空壕ニアツて数名ヲ残して全部即死セル状況ニシテ、ナルトモ全部飛散シ一物モ在セザル」有様であった。
爆心から約700m東南の長崎医科大学本館、基礎医学教室は崩壊、消滅し、ほとんどの関係者が爆死または被爆後死亡した。講義室で受講中に被爆死をとげた学生の数は、学部、医学専門部在籍1・2年の生役約580名人の中でで約414人に及んだ。長崎医科大学附属病院は地下1階、地上3 階の鉄筋コンクリート建で、かろうじて外形を保ったものの、内部は完全に全壊して火災を生じた。被爆した死傷者続出し、多少余力ある者は穴弘法の丘に這いあがり約300名が一夜を明かした。約半数は翌朝には動かぬ死体となった。外科学教授の調来助は8月9日午後から負傷者の応急手当にあたり、疎開先の滑石に2カ所の建物を借り受け、12日学長角尾普以下の医科大学関係の負傷者をここ滑石救護所に移した。調来助から以下約13人の医師、学生、看護婦は8月12日から8月17日まで約100人を越える被爆者の治療、看護等にあたった。8月18日に生存中の被爆者を新興善救護所、大村海軍病院へ転送し、阪救護所を閉じた。長崎医科大学放射線科の永井隆ら約12名は、長崎市外三ツ山地区で8月12日から10月8日まで巡回診療で被爆者医療を施した。
その他浦上第一病院は爆心地から約1.4km離れた木原の丘の上にあった。聖サンフランシスコ修道院経営の病院で、長崎原爆の被爆当時に結核患者を約70名を収容していた。長崎原爆の爆風により、内部は破壊され、延焼して医療器械、薬品を焼失した。浦上地区に残存した唯一の病院として被爆者医療を担った。同病院医医師の秋月辰一郎らは、8月10日から診療をはじめ、8月12日には長崎県警察警備隊及び川南工業奉仕隊が入って、病院療地を整理し、木原に救護所を開設した。長崎原爆の被爆直後に山里国民学校に一日救護所が設置された。木原町一帯の多数の被爆者は防空壕の中で未処置であった。浦上第一病院の木原救護所は秋月振一郎らの努力によって医療活動を続けた。1948年12月に聖フランシスコ診療所は、院長ブルダン神父らが施設を再建した。造船、兵器、製鋼、電機の三菱系の約4会社が結集していた長崎市内には、爆心地から約3.5kmの鮑之浦町に三菱病院本院が、約3.0kmの船津町分院、泣く1.1kmの茂里町に浦上分院があった。そのうち船津町および浦上の分院は全壊または火災した。本院も若干の被害を受けて、総力をあげて救護の任にあたり、病院のほか鮑の浦国民学校をも仮病院として、多数の負傷者を収容した。あらかじめ救護所に予定されていた新興善、勝山、伊良林、磨屋などの国民学校、長崎経済専門学校などへは、被爆直後から被爆者が集まった。爆心地に近い城山国民、山里国民学校、市立商業学校、道ノ尾駅付近でも直後から救護活動が開始された。
これらの救護活動は生存した長崎市医師会員のほか、諫早海軍病院、大村海軍病院、諫早市医師会、小浜医師会、島原市医師会、三菱病院 救護班、針尾海兵団、佐世保海軍病院武雄分院、久留米陸軍病院、福岡陸軍病院などの救護班によって行われた。長崎経済専門学校には、鎮西集団命令によって軍関係、医療関係者約200人近くが入り、8月16日から仮編成して、約216病院を開設し、9月2日までの間に被爆者約305名うち161人が被爆した。新興善救護所へもっとも早く入ったのは針尾海兵団第一救護隊で、8月10日午後に新興善国民学校に入り、8月11日に浦上へ出動した。8月11日に佐世保海軍病院の武雄先進隊が、さらに8月12日に武雄分院救護本隊が入った。8月15日には武雄分院からの薬品衛生機器が到着した。8月16日には、針尾派遣隊の第2次救護隊が加わり、以後新興善救護所は特設救護病院とした整備された。針尾派遣隊は8月21日、武雄派遣隊は9月5日に撤収した。長崎市医師会が代わって新興善救護病院の救護を継承した。新興善病院は10月6日に長崎医科大学との合併が決定し、10月23日に正式に長崎医科大学附属病院となり、院長は調来助となった。針尾海兵団派遣の救護隊の報告によると、8月17日から31日までに外来患者延べ約3.991人、在院患者延べ約3,936人、約入院は約370人、退院は約53人、死亡は約154人であった。新興善病院では東京帝国大学、九州帝国大学、熊本医科大学、山口県立医科専門学校などの救護班や研究班がそれぞれ医療に従事した。
被爆者の多くは、長崎市外への避難、被爆者などの市外への輸送には、救援列車が関与した。被爆当日の8月9日の午後一時から 夜半までの間に4本の列車が運行された。道ノ尾駅と浦上駅間の中間地点から、諫早、大村、川棚、壱岐などへ総計およそ約3.500人もの被爆者を輸送した。徒歩、トラック、列車などで長崎市外に逃れた被爆者を受け入れたのは、時津村の時津国民学校が約521人を収容して、約96人が死亡した。万行寺は約356人収容して、約45人が死亡した。8月18日までに、長崎市の隣接町村である長与村の長与国民学校は約762人を収容して、約96人が死亡した。茂木町では約80人を収容して、上村の森医院などは約200人を収容した。
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