日中戦争の爆撃後に、中国軍兵士らの死体群が荒野に散乱した。弾丸が集中砲火されて、山野が荒廃して破壊された。日中戦争の戦場には日本軍は、弾薬、ガス爆弾、煙爆弾、そのほかの武器も装備した。日本軍の殺害、専制政治、囚人の虐殺や絶滅から個々の日本軍兵士の犠牲に至るまで従軍日記に記録されていた。燃える家、殺人、強盗、強姦の内容は至るところで発生した。従軍日記にほとんど表現が乏しく、無関心に毎日記録していた。
中国を侵略した旧日本軍に従軍した元兵士である日本人の荻島静夫の従軍日記の資料が2004年に四川省で発見された。中国国家文化遺産管理局が1937年8月から1940年3月までにつづった日記を翻訳した。完全に揃った従軍日記が、初めて中国で発見された。文章を裏付ける写真、荻島静夫の部隊番号、使用した日本軍が配布した記録帳の日記、朝日新聞のニュース写真と日本製カメラなどに対応する物的証拠が揃った。日中戦争の戦場における日記の目的や保管方法は不詳である。「荻島静夫日記―中国を侵略した日本軍の戦地の実録」が2005年8月12日に、人民文学出版社から人民網日本語版が刊行された。約20万字に及ぶ7冊の従軍日記を翻訳し、日記に付随する荻島静夫らが撮影した写真208枚とともに整理して編集した。日記と写真の原本は現在、四川省の個人収蔵家の樊建川さんが所有する。
日中戦争が、1937年7月7日に北京西南方向の盧溝橋事件が勃発して開戦された。荻原静夫は、1937年8月23日の23歳に神戸に招集された。1937年8月13日に第二次上海事変が勃発して、1937年9月に上海派遣軍第101師団として上陸した。第二次上海事変では、荻原静夫は死体埋葬班として一人で約1,000体も火葬した。1937年10月6日から10月8日には、日本軍の前線部隊には約200人程度が残存して、犠牲者の死体は上海市外に泥だらけの畑に散乱した。10月26日に日本軍が大場鎮を占領して、上海をほぼ制圧した。第二次上海事変の勃発から日中全面戦争に突入した。日本軍の上海派遣軍第101師団は、1937年8月に上海の上陸時には約5,000人いたが、1940年月に帰還できたのはわずか300人であった。
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