アメリカ空軍による空襲は、1942年4月18日から勃発した。1945年3月10日に、約334機ものB29爆撃機による東京大空襲で約10万人が死亡した。廃虚に呆然(ぼうぜん)とたたずむ、むしろをまとった裸足の市民の姿である。焼け跡に日本人市民の戦災者が、瓦礫におおわれた歩道の敷石上を呆然と歩んだ。うつろな目つきで、上半身には上着の代わりにわら敷を、両手で抑えていた。わずかに都会の面影を残している路傍に掘られた防空壕にはまだ市民が在住した。焼けた土蔵や金庫の残骸などのが、人の住む場所ともなった。
敗戦直後の全国の住宅の不足は約42万戸に達した。市民の住宅は、わずかな木と紙やトタンなどのバラック生活で、一軒の家に約5人家族が同居して、約1畳に約2人が同居した。1945年末に厚生省は、失業者を日本全国で約1,300万人と推定した。物々交換から超高値のインフレと飢餓で生活困難となった。全国から毎日に餓死者と病死者が排出された。1947年には、浮浪児は約12万人にも達して、そのうち約3万人が戦災孤児であった。
アメリカ軍の空襲で焦土となった都市に市民がたたずんだ。占領された直後の日本の光景である。戦争時から政府や新聞社の豹変に対していささかも謝罪をしない。敗戦しても、態度は横柄のままで政権の御用をつとめて責任のがれをした。1946年元旦に天皇の人間宣言の詔書が新聞に掲載された。
東京周囲は焼夷弾などで焼滅した焦土の焼け野原となった。1945年8月15日に日本は無条件降伏した。1945年9月2日に、東京湾上のミズーリ号で降伏文書の調印をした。「過去の出血と殺戮の中から、信仰と理解に基礎づけられた世界が、全人類の願いである。」総司令部GHQは、1946年10月4日に特高警察の罷免と治安維持法の廃止、10月14日に男女同権・労働者の団結権、教育自由化・専制君主の廃止、経済民主化を指令、10月16日に武装解除、11月2日に財閥の解体、12月9日農地改革を断行した。マッカーサーによる6年足らずの統治下において、さまざまな大変革が成された。未だに憲法問題、国防問題、教育問題、沖縄問題、人権問題などなど、世論を二分して、日本を揺り動かしている。
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