日露戦争の奉天会戦の間に、日本軍により殺害されて倒れたロシア軍兵士の死体は、仲間が墓地を掘り込んだ。土中に死体を埋めて、その上に十字架を杭して埋葬した。日本軍は約15,892人が戦死、ロシア軍は15,814人が戦死行方不明の膨大な犠牲者となった。
日露戦争の終結に繋がった奉天会戦が、1905年2月20日から3月10日まで中国東北部瀋陽で勃発した。戦闘は第一次世界大戦前に行われた最大の戦いの1つである。日本軍は約24万人以上、ロシア軍は約36万人もの兵士が従軍して参戦した。両軍ともに日露戦争が長引くほど、人的・財政的な損失が重なり危機的な事態に陥る危険性が出た。両軍ともに戦況は拮抗していたが、3月7日に約9万もの死傷者を出したロシア軍は、兵力を温存するため退却した。3月10日に日本陸軍は奉天に入城して占領したが、約7万の死傷者の犠牲を伴って追撃の余力を失った。ロシア軍の壊滅に至らず降伏を達成できなかった。奉天会戦の結果、日本は戦力の限界から、これ以後大規模な作戦をできなかった。
1905年1月9日に、ロシア帝国のの首都サンクトペテルブルクで、労働者は皇宮への請願行進をした。政府軍が発砲した血の日曜日事件は、多数の死傷者を出して第一革命の起点となった。ロシア軍も打ち続く敗戦が、ロシア革命の機運を高めることを恐れて、奉天会戦が講和条約に繋がった。5月27日の日本海海戦で、日本海軍の連合艦隊はバルチック艦隊を撃破して終戦を迎える次第となった。日本陸軍が奉天入城した3月10日が陸軍記念日、日本海軍はバルチック艦隊を撃破した5月27日を海軍記念日となった。陸軍と海軍を共に国民的英雄とする特別な祝勝日となった。
No comments:
Post a Comment