広島原子爆弾の炸裂により、爆心地から約1.4kmにある東は白島町の広島逓信病院は、爆風で窓枠も吹き飛んだ。広島逓信病院にて、被爆者に対して一日中わたり懸命な救護活動が行われた。広島逓信病院の眼科の勤務医が、左腕を被爆しながら医療関係者らと救護活動に専念した。翌日の8月7日早朝から病院に出勤した。相当の放射線を浴びて、ひどい倦怠感を伴った。8月8日から地方から救援の一部の医療者と合流した。一時的に緊急事態となり収容者の記録、姓名、住所、年齢も不詳となった。
広島逓信病院では多数の被爆者が廊下の一面に横たわって呻いた。一部の被爆者は病院にすら入りきれずに絶命した。本来の2階の病室が、鉄筋以外は焼失した。8月8日には病院に、収容者の氏名の一覧表を掲載すると、肉親がなだれ込んだ。病床には各被爆者の氏名を枕元に置いた。多量の放射線を浴びた被爆者は、出血傾向となり体内出血した。8月9日には隣の広島逓信局に駐在していた江田島から救援する暁部隊の青年兵が、宇品から資材を運搬して、広島逓信病院の南側にバラックを急造した。出血傾向の被爆者をバラックに隔離した。バラックは炎天下では、灼熱するために被爆者は救護を求めた末に脱水死も誘発した。多数の息が絶えた被爆者の死体が病院の前に放置された。連日に庭の片隅に死体を運搬して、焼け跡の残木などを集めては火葬して死体処理をして、白骨を土中に埋めた。一部の遺骨は、薬びんに入れては、遺族に引き渡した。
常磐橋を越えると、満潮で水流が止まり多数の被爆死した死体が川面に浮いていた。饒津神社の鳥居の脇に、死体の一部は丸太のように引き上げられた。悲惨な倦怠感を伴い、死に無関心となっていた。戦時になると人間性も失って、失神状態となり、限度を超えた悲惨や残酷も、何らの虐待や虐殺を感じなくなっていまう。
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