フィリピンのネグロス島において、1987年5月にはフィリピン政府軍とアルサマサ反共産自警団に、ネグロス島の農民を襲撃して、短絡的に反政府ゲリラの容疑者として、虐待と虐殺された。その残忍な死体が、南部カバンカラン丘陵地帯の小道に放置されて散乱して腐敗した。1987年4月にフィリピン政府軍は、南部の山村を反政府ゲリラとして虐待と虐殺して焼き払った。反共産自警団ではアルサマサは、1986年4月に結成されて、地域を監視した。1987年から、内戦が激化して大量の約38,000人もの国内難民が発生した。
ネグロス島は、フィリピンのセブ島の西下端の中部ビサヤ地方にある。植民地時代以来、砂糖栽培で繁栄したが、一方で単一栽培化と貧富の格差が進んだ。わずかな大地主が富を独占して、農民の多くが雇われる農業労働者となった。1985年に、砂糖の国際的な取引価格が暴落した。ネグロス島の砂糖産業は打撃を受け、地主の破産、農園の放棄、農民の解雇が相次いだ。地主に雇われて働く農民は、砂糖栽培が没落すると同時に失業者となった。ネグロス島全土に急速な勢いで飢餓が広がった。砂糖価格の低下から飢餓にの起点は、アメリカ植民地時代から続いた特恵的関税が1974年に打ち切られた。1970年代以降は、代替甘味料が増産した。各国とも自国産業の保護を優先して、フィリピン産砂糖の需要は激減した。砂糖危機が生じた1985年頃はマルコス独裁政権の末期で、政治経済が不安定であった。1970年代以降、貧富の格差の拡大から、農民は新人民軍(NPA)に潜入者が多くなり、ゲリラによる武力攻撃や誘拐が相次いだ。フィリピン国軍と対NPAの内戦状態となった。山間部の農民は双方の内戦と掃討で虐待と虐殺されて多くの難民が出る惨状となった。1990年代半ばにNPAはほぼ壊滅したが、内戦の後遺症から多くの農民が難民となった。フィリピン政府は1988年以降に、包括的農地改革法を制定し、ゲリラの原因となる地主の農地所有を強制収用や配分をした。地主の抵抗が強く、収用・配分目標は達成できなかった。農地の多く、砂糖畑は地主地であった。2000年代に国際砂糖市場やネグロス経済は回復したが、島内の貧富の差は根強く残っままである。
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