ベトナム戦争において、1968年2月12日に韓国軍の作戦地域であったベトナムのクアンナム省フォンニィ・フォンニャット村で虐殺された民間ベトナム市民の死体で、ほとんどお年寄りや子供たちであった。アメリカ軍の上等兵が、韓国軍がフォンニィ・フォンニャット村に攻撃した直後に殺害された女性と子供の死体を撮影した。アメリカ軍による1968年3月16日のソンミ村虐殺事件よりも約1ケ月前に韓国軍による虐殺事件が勃発した。韓国軍のベトナム派兵は1964年9月に非戦闘先遣部隊が送り込まれ、1965年2月に工兵部隊を中心に約2,000を派遣した。戦況が悪化して、10月には約18,000人の戦闘部隊を本格的に投入した。韓国軍がベトナムから撤退する1973年3月までに延べ約325,517人に及び、アメリカ軍に次ぐ大量派兵となった。
ベトナムのサイゴンのアメリカ軍司令部のサムシャープ(Sam H.Sharp)大佐は、2月18日に秘密報告書1部を軍司令部参謀長のタウンゼントに提出した。そのタイトルは「1968年2月12日に韓国軍による残酷な行為の疑惑」であった。アメリカ軍は4月29日に韓国軍に虐殺事件の有無を問い合わせた。韓国軍は6月4日に、大量虐殺事件は共産主義者による陰謀であると回答した。1968年2月12日の虐殺事件。場所:クアンナム(Quang Nam)省、ジエンバン(Dien Ban)県、フォンニィ(Phong Nhi)・フォンニャット(Phong Nut)村。状況:韓国軍海兵隊の2旅団1大隊第1中隊は、並べ縦隊を組んで街を通った時に狙撃を受て、村を攻撃した。前小隊から民間人を搬送させた後は、ほとんどのベトナム人は射殺された。犠牲と損失:79人(または69人)のベトナム人女性と子供たちが銃剣で刺殺されたり銃殺して虐殺された。韓国軍海兵隊の1人が負傷した。(作戦名:グェリョン1号作戦)
その他の虐殺事件は、1970年1月10日、ガムチャルブの軍司令部で、ロバート・クック(Robert M.Cook)大佐も秘密報告書1部を参謀長に渡した。タイトルは「1969年4月15日韓国軍海兵隊による残酷な行為の疑惑」。ベトナム民間市民が約4人が死亡して12人が負傷し、韓国軍は約1人が死亡し4人が負傷した。翌日の1970年1月11日、ロバート・クック大佐はまた、虐殺事件の報告書を、同じ関係先に送る。虐殺事件のタイトルは、「1968年10月22日韓国軍海兵隊による残酷な行為疑惑」であった。ベトナム民間市民が約22人が死亡して約16人が負傷し、韓国軍の犠牲者数は不詳であった。
アメリカ国立公文書館は、2000年6月にベトナム戦争における韓国軍によるベトナム人民間市民の虐殺に関するアメリカ軍側の公式文書や写真の初公開を<ハンギレ21>が入手してした。アメリカ国立公文書のアーカイブ(NARA: National Archives&Records Administration)から2000年6月1日に30年ぶりに極秘が解除された。報告書は、アメリカ軍司令部におけるレポートと写真、各種添付文書で構成された。報告書は、ベトナム戦にて、韓国軍によるベトナム人の民間市民の虐殺を確認したアメリカ軍の公式文書である。それまで国防省は「韓国軍のベトナムの民間市民の虐殺疑惑」と関連文書の実在は、一貫して否定していた。報告書は、「ベトナム民間人虐殺疑惑」と関連して3つの事件を扱っている。1968年2月12日のポンニ・ポンノト村で起きた虐殺事件の報告書で最も衝撃的なのは、添付された20枚の現場写真である。この写真は、韓国軍が村を攻撃し、撤退した後に、ヴォーン(J.Vaughn)アメリカ軍軍上等兵が到着して撮影した。ほとんどの犠牲者は、女性や子供であることが明らかである。但し、ベトナム戦争の最終責任者であるアメリカ軍が作成した秘密報告書であった。
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