1992年冬季に東ボスニアにおいて虐殺されたセルビア人の死体がトラックの荷台に積載された。ボスニア政府軍が東ボスニアの小さな村を襲撃した。村人たちが近くのボスニアのセルビア人武装勢力に援護を要請した。警戒警報のサイレンが鳴る中で、セルビア人武装勢力が村を、ボスニア政府軍から奪還した。村から逃げ遅れた村人は、皆殺しにされて、多数の犠牲者が出た。肉親の父親がセルビア人の息子の身を案じた探索した。父親が犠牲者の中に虐殺されてトラックに積み込まれた息子たちの死体を見つけ出して慟哭した。
ボスニア=ヘルツェゴビナ共和国は、ユーゴスラビア社会主義連邦共和国の崩壊から1992年3月に独立宣言を強行した。ボスニア=ヘルツェゴビナ共和国には、ムスリム人(イスラム教徒)、セルビア人(キリスト正教会)、クロアチア人(カトリック教徒)の主要民族がいて、この順番に人口比率が高い。セルビア人の人口比率も32%と高く、内戦はクロアチア内よりも激しくなった。これに対してセルビア人は独立に反対し、民族衝突が激化した。ユーゴスラビア連邦軍は、ボスニアのセルビア人の保護を理由に武力介入を始めた。戦闘がボスニア=ヘルツェゴビナ共和国の全土に拡大した。
ユーゴスラビア連邦共和国はセルビア人が中心で、ユーゴスラビアを解体したくない考えなので、分離独立の動きには反対であった。1992年4月にボスニア全土に非常事態宣言が出される。1992年4月にはユーゴスラビア連邦議会は、セルビアとモンテネグロ両共和国からなる連邦国家である新ユーゴスラビアの創設を宣言した。ユーゴスラビア社会主義連邦共和国は消滅した。
6つの共和国から成っていた旧ユーゴスラビアは崩壊して、5つの国に分離独立した。新ユーゴスラビア軍は、ボスニアに武力介入して、一時にはボスニア領土の60%以上を占領した。1992年5月に国連安保理理事会は、新ユーゴスラビアに対して、経済制裁を決議する。経済制裁によりセルビアの経済は破綻して、月率約100%のインフレにより、実質失業率が約60%となり、工業生産高も約3分の1まで落ち込み、輸入品が枯渇した、国民は買いだめて、ガソリンの割当を求めて長蛇の列ができたり、バス便数が減少して、救急医療体制の不備を引き起こした。セルビア国家予算の約70%が内戦への戦費支出を占めた。
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