広島原子爆弾の炸裂による重度の被爆者が、広島市段原山崎町4番42号の第一国民学校に収容された。第一国民学校は爆心地から南東に約2.64kmに位置していた。鉄筋校舎により全崩壊を防いで、救護所に転用された。広島原子爆弾により北側の木造校舎は倒壊した。その他の東校舎や講堂などは、窓枠や窓ガラスが破壊された。その校舎や食堂などは全壊は免れた。被爆後に、東校舎と講堂は臨時救護所となり、1945年10月上旬まで多数の被災者を収容して救護した。6年生の国民学校初等科を終えた子どもが、2年間通った。
1945年8月7日から20日にかけて顔面から上肢の全体にかけて、重度の火傷を被爆した女性が、第一国民学校の救護所内で寝たきりになっていた。右手指の重度の火傷を身内の女性らが処置していた。広島市内で崩壊を免れた鉄筋の学校などの建物が、救護所として転用された。連日にわたり、多数の被爆者が受診した。広島市前身となる広島市立第一高等小学校が、1932年4月1日に広島市段原山崎町に設立された。軍事主義教育の色合いが濃い「国民学校令」の施行により、1941年4月1日に広島市立第一国民学校と改組された。第一国民学校は、現在は段原中学校に転用された。
国民学校令が1941年3月1日に公布され,同年4月1日からそれ以前の小学校が国民学校に改組した。国民学校令は小学校令を全面改正し、初等教育・前期中等教育を行う国民学校を天皇が勅令した。国民学校の目的は、「国民学校ハ皇国ノ道ニ則リテ初等普通教育ヲ施シ国民ノ基礎的錬成ヲ為スヲ以テ目的トス」に要約された。「皇国ノ道」とは、教育勅語の「国体の精華と臣民の守るべき道との全体」であり、「端的にいえば皇運扶翼の道」と例えた。国民学校では、「教育の全般にわたって皇国の道を修錬」を目ざした。「初等普通教育」は国民学校の内容、「基礎的錬成」は、教育の方法を示した。
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