ナチス・ドイツ軍は、1942年5月7日にベラルーシ共和国の首都ミンスクの路上で、パルチザンとして約28人のユダヤ人らを絞首刑にした。インデペンデンス街路とエンゲルス通りとの交差点で、抵抗勢力のユダヤ人らが絞首刑にされた。通りがかったドイツ人市民と役人が、絞首刑されたユダヤ人の死体を見上げた。さらに約250人が射殺された。カジッツ・イサイ・パブロビッチら約28人は武装抵抗による射撃で、数人のゲシュタポ将校を負傷や殺害したが、3月28日に逮捕されていた。
ドイツ軍は、1941年6月23日に首都ミンスクを空爆して、6月27日に侵入した。建物が燃え上がり崩壊して、市内には死体が散乱した。占領直後にドイツ軍は15歳から45歳までの約40,000人ものすべての男性を登録した。ミンスク郊外のドロッディの畑で、ユダヤ人、赤軍人、非ユダヤ人民間人の3群に隔離された。非ユダヤ人を釈放して、数千人の知識階層のユダヤ人全員を、近くの森に連行して、機関銃で射殺した。1941年11月7日に約12,000人と11月20日に約5,000人のユダヤ人が、トゥチンカに連行されて殺害された。
ナチス・ドイツ軍が占領しても、ミンスクの住民は、ユダヤ人迫害に関して無関心であった。ミンスクの人口約238,948のうちベラルーシ人は約51.9%で、ユダヤ人は29.7%も占めた。ミンスクはユダヤ人労働運動が発祥し発展した都市の1つでもあった。ベラルーシ人市民自身によるユダヤ人の浄化運動であるポログロムはほとんど発生しなかった。ドイツ軍は、ミンスクの北西部に、少なくとも約85,000人のユダヤ人を隔離居住区として最大のゲットーに強制居住させた。そのゲトー内で、ユダヤ人が抵抗運動の地下組織を結成した。非ユダヤ人とパルチザンとの連携も構築された。
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