ルソン島南部におけるリパの住民を日本軍兵士が大量虐殺した事件は、日本兵団の絶対的命令でもあった。事件後にはゲリラや住民らが大量虐殺に対する報復として、捕虜となった日本軍兵士の首を切断した。その埋葬地を戦後に発堀すると多数の白骨が出現した。その他に、不明な崩れ去った野ざらしの骨も産出された。野ざらしの骨に、薪を組み入れて並べて、薪に火を付けて、遺骨を荼毘に付した。
バタンガス州リパの虐殺は、1945年2月16日から3月19日にかけて断続的に行われ、犠牲者数は約12,005人以上にも達した。ある村では、一村1,500人の全員が日本刀で首を切り落として虐殺された。リパ事件を体験して生還した旧日本軍兵士が、『狂気-ルソン住民虐殺の真相』を告発した。極限の残酷な戦争体験をすると、心的外傷後ストレス障害(PTSD)を伴った。フィリピン各地には、地元の人しか知らない、「旧日本軍に虐殺された慰霊碑」が多数残存している。
谷底7メートル余りの侵食渓谷にて、日本軍兵士は住民らを白濁の水が流れた崖っ淵に連行した。突け!と銃剣は、一人の住民の胴体をⅩ字に貫き、すぐさま軍靴の底を腰に当てて銃を引いた。もんどりうつようにリパ住民はは谷底に芋づる式に落下した。日本刀の試し切りもした。日本刀を振り降ろし、あるいは横に薙ぐと、滝のような音を立てる血潮の圧力で、首は前に飛び、宙に舞い上がった。さらに1945年3月初句には、日本軍はある集落の全住民約200人を小学校の講堂に集めて監禁して、数人ずつ崖に連行して、次々と銃剣で刺して死刑にした。赤ん坊は両足首をつかんで頭を岩に打ちつけて殺した。日本軍は、マリプニヨ山の麓の村で大討伐して、小学校に集合させた約1,000人の住民が、暗くなってから無差別に女子も子供も含めて虐殺した。次第に日本軍は泣き叫ぶ女子や子供までを、銃剣で一突きして井戸に投げ込んだ。コンクリートで固めた縁高の井戸に、後手にくくられた十数人の住民の死体が、重なり合った。
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