太平洋戦争が終戦を迎えていた1945年10月に、北ボルネオのサンダカンの捕虜収容所に、アメリカ軍は極度の栄養失調なって飢餓から餓死になりかける日本軍兵士の捕虜を護送した。補給品を運搬する日本の船舶を、アメリカ軍は入港できないように封鎖した。
逆に日本軍は1945年1月から、捕虜にした連合国兵士をサンダカン捕虜収容所からラナウまで虐待と虐殺のサンダカンの死の行進を強制した。約1,000人の捕虜のうち 約99.3%が飢餓に陥ると虐殺されて餓死して、わずか約7人のみが生存した。戦後にBC級裁判で、日本軍の幹部は極刑に処された。
太平洋戦争の諸島では日本軍兵士に食糧の供給が完全に停止して、多数の悲惨な餓死の犠牲になった。餓死した死体があちこちに散乱して、腐敗した死臭が漂い、ウジ虫やハエなどが集散して、骸骨やミイラなどに変態した。栄養失調で移動できない日本軍兵士には、手榴弾や拳銃による自殺を迫った。太平洋諸島では、自家栽培や略奪による自給自足は困難を極めた。
太平洋戦争のガダルカナル島では、日本軍兵士の全戦死者数の約20,000のうち、餓死者数は約4分3の約15,000人を占めた。ニューギニア島では、派遣された日本軍兵士の約157,646人のうち生存者はわずかに約6%の約96,000人のみであった。戦死者のほとんどは餓死あるいは伝染病である熱帯熱やマラリアなどで死亡した。フィリピンの戦いでは、日本軍兵士の約498,000人のうち約400,000人の約80%を占めた。太平洋戦争の期間中である1941年から45年に、総計で約1,740,000人が死亡して、その内で約1,000,000以上が栄養失調に伴う餓死あるいは疾病で死亡した。大本営は食糧の供給をせずに、日本軍兵士に敵国の軍隊が奪い取り自給自足を指令して、悲惨で膨大な餓死者を見捨てた。
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