日中戦争における第二次上海事変にて、日本軍に対して1937年9月3日に上海の大世界において中華民国軍の爆撃により、上海市民が大量虐殺された。上海の路上には、上海市民の死体が散乱して、死屍累々たる惨状となった。
日中戦争は1937年7月7日の盧溝橋事件により勃発して上海まで波及した。8月12日に中国民国軍が、上海共同租界の日本軍を包囲して上海事変に陥った。1937年8月14日に中華民国の爆撃機が、上海市内の日本海軍陸戦隊の本部などを爆破した。上海市内の繁華街で約200人以上の上海市民が死傷して大惨事となった。中華民国軍からの爆弾は、大世界の入り口や南京路外灘にも投下された。日本軍の攻撃による中華民国軍の破損による誤爆と逆説もされている。
国際的にアメリカの写真通信社のACME(UPI通信社の前身)が発信して、日本軍に対する国際的批判が巻き起こった。ACMEによれば、上海市民が数百人死亡した現場である。日本軍の猛烈な対空砲火から逃れようとして、大混乱に陥った上海市民に対して、中華民国の爆撃機から爆弾が投下された。上海の大世界は、歓楽街であり、多数の上海市民が集合していた。イギリスやアメリカから発信されて、中華民国軍の爆撃ではなく、日本軍の非人道的行為のみが強調された。日中戦争により、中国の各地での死闘により、多くの市民が巻き込まれて悲惨な犠牲者となった。日本と中国の全面戦争に拡大して、時期尚早に対米戦争への突入の起因ともなった。
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