住吉臨時救護所は掘っ立て小屋であり、トタン屋根であった。被爆者のわずかな応急手当てをして、生存可能者を後方の救護所へ護送した。トタン板の上で、本川に流れて来た被爆者の死体を引き上げては火葬した。多くの火葬された白骨の一部が散在した。
広島市に原子爆弾が1945年8月6日午前8時15分に投下されて、爆心地の周辺は完全に崩壊して全滅した。爆心地から約1.4km太田川に分流である本川の最も南側に住吉橋がかかっていた。原子爆弾が炸裂して約1週間後の8月12日頃に、住吉橋東詰めに被爆者を収容する臨時救護所があった。この救護所には、東地区の警備隊長が管轄して、軍医1名、衛生兵1名の体制で、重度の被爆者を収容した。近隣には住吉神社、中島国民学校、広島県立病院、広島県庁があり、広島市の東西を結ぶ繁華街であり、多くの被爆者が倒れて被爆死した。
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